2008.06.03 Tuesday
今までは大阪紙面の虎ネタを「阪神」と別立てにしていたが、名目上は他球団と同じ扱いになった。さすがにWEBサイトは全国いや全世界に向けた「公器」であることにあらためて気付いたのであろう。これは「なにわWEB」を廃したニッカンと同じ方向性か。スポーツ新聞、スポーツ新聞のサイトについては、またあらためて書こうと思う。
で、そんなリニューアルを受けてかどうか、うちもちょっと文字を大きくしてみたんだけど、どう?とある方から、「字がちっちゃい!」と苦情を受けたので(笑)。
あちゃー、球児から死球を受けたF高橋信二捕手は、精密検査の結果、左小指中手骨の骨折で全治1ヶ月だったんだって。森本やマイケルなど故障者続出のところに…。野球につきものとはいえね…。球児もしっかり立て直さないといけないね。
安藤が疲労性腰痛で抹消。岡田監督によれば「1回(登板予定を)飛ばすだけやからな。それほど重くはないよ」とのこと。そういう時期ではあるので、しっかりケアすればOK。
火・水は仙台でイーグルス戦。しかし予報では火曜は雨模様、木曜の予備日まで使うことになるのかな。2+4連戦が、移動ゲーム含みの6連戦になるが、まあしゃあないね。先発も上園や阿部やひょっとしたら二軍から上げる投手で回すことになるだろうが、それもまた楽しい。いずれにせよ天気が心配な6試合になるね。
「今さら2リーグ制を語る」で触れた「DH制」についてスピンアウト。
主旨は、DH制は「ルールの骨格部」なので、リーグにかかわらず「採用」とした方が良いのではないか。もしどうしても「保存」したいというのであれば、リーグにかかわらず一定試合数を「投手打席あり」で実施するなどして保存していけば良いのではないか(私はそこまでする必要はないと思うけど)、というもの。
【DH制はルールの骨格部分である】
野球という競技の国際化がなかなか進まない理由は山ほどある。その内の小さい理由の一つにスタンダードが定まらないというのがある。例えばストライクゾーン、例えばボール、例えばドーピング規定。もちろん審判の目視のブレは仕方ないとして、プロリーグを含めて国際スタンダードを定める努力くらいはして欲しいと思う。
DH制も重要なルールの骨格。それによって「その選手がどうあるべきか」という目標が変わり、日々の練習も違ってくる。「最高峰のルールはかくあるべし」という基準の一つとして定めるべきだと思う。
【DH制が生まれた背景】
これについてはしっかりウラをとったわけじゃなく、「想像」であることをあらかじめおことわり。
これまでも野球はいろいろとルールを変えてきた。もっとも大きなルール変更は「速球OK」、つまり投手が打ちにくい球(速球)を投げて良くなったことだろう。このルール変更によって、野球における「投手の重要性(専門性)」が際だつようになる。変化球やら、コントロールやら、どのポジションよりも専門性が求められるようになる。
現代ではさらに先発、中継ぎ、クローザーと分業によるスペシャリスト化が進む。その変化の中で、その専門性故に、極端にアウトになる確率が高い投手を打席に送るのを止めようというルール、「DH制」ができる。どちらのチームにも等しく1アウトの可能性が高い「つまらない打者」を置く代わりに、投手の代わりに打ってあげる強打者を等しく置くことにしようというもの。
これにより、投手が打撃やバントの練習をしなくて良くなり、「打撃(だけ)の天才」が守備の練習をせずに良くなった。それぞれのスペシャリストとしての技能向上に専念できるようになる。これは非力な野手がホームランを打つ練習をする必要がなくなるのと同様である。よって見ている人も、従来のマルチな才能だけではなく、スペシャリストとしての才能を楽しむ多様性を享受できるようになったのである。
【「投手打席」を残す理由】
しかしそういうルール上の「進化」にも関わらず、MLBで片方のリーグでは「投手打席」を残している(NPBでもそれに倣っている)のは、なぜなのか。
これは「投手打席も、それはそれで面白いから」という理由と、それが「伝統的、本来の姿であるから」という理由によるのだと思う。
「伝統的」については懐疑的でも、「本来の姿」については理解できる部分もある。野球の本来の姿は「子どもの遊び」であるべきだと思うから。子どもにはあまり小さいうちから「専門」に走って欲しくない。いろんなことにチャレンジして欲しい。小学3年生の時から、「ボクはDHになる」なんて言わないで欲しい(笑)。いや、本当はそれも良いと思ってるんだけどね(後述)。
でも背景の変化とともに「本来の姿」も変わったこと、ましてや最高峰のゲームについては「本来の姿」を再考しても良いのではないかということについては前述したとおりである。
「それはそれで面白い」の主な部分は、「試合の駆け引き」ということになるのだろう。と言っても、主に「チャンスの場面で好投している投手を代えるかどうか」、そこで監督の采配、判断が求められるという点に限定されていると言って良いかも知れない。後は、守備側チーム、攻撃側チームとも、極端に打てない打者一人をどう活用するかという点だけである。面白さの基準はひとそれぞれ。確かに「それはそれで面白い」と言えなくもない。でも、DHなら代打の判断はもっと高度になると思うけどね。
まあ麻雀で言ったら、「有り有り(後付け有り)」か「無し無し(完全先付け)」かの違い。どちらのルールにも良さがあり、いわれがあり、愛好者がある。そして、そのルールの違いでまったく違うゲームになる。ただ言えることは、頂点の技能を見せるプロの場合は、エンターテインメント性を軽視すべきじゃないということ。監督采配に重きを置くより、トップ選手の対決に重きを置くべきだと思うのだ。
DH制の方が、両エースがっぷり四つの投げ合いで終盤まで、なんていう対決が誘発されやすい。DH制の方が、打のスペシャリストに活躍の場が与えられやすい。有り有りの方が、「メンタンピン一発ツモ三色イーペーコードラドラバンバン!」てのが出やすいってことなのだ。
したがって私は、(最高峰のプロリーグにおいては)「投手打席」をありがたがって保存しなきゃいけない程でもないように思えるのだ。
【多様性】
2つの野球を併存させること、「それが野球の多様性だ」という意見もあるのかも知れない。野球の多様性は大好きだ。フロント、首脳陣、選手が、いろんな戦略、戦術、作戦、技術を取り揃える。楽しいことだ。
ルールの多様性も民間プレーヤーのレベルなら、あっても楽しい。だけど最高峰なら決めてしまった方が良い。
スペシャリストを広く受け入れるという点で、DH制は選手の多様性を可能にする制度だ。だから、小さい頃からスペシャリストになろうという多様性を排除することもない。
何をどうやっても速く走れないし、強く投げられないが、とんでもなくかっ飛ばす選手がいたとして、DH制があればどえらい選手に育っていく可能性が高まる。なんらかの理由で、スペシャリストを目指したいという若い才能の芽を生かすことになるのかも知れない。
【保存するのなら】
それでもどうしても「投手打席」を保存したいというのなら仕方ない(笑)。全試合のうちどれくらいかみんなで話し合って、旧ルールでやったらよろし。ああ昔はこういうルールだったなあと、オレは投手だけど打席も好きだったぜってね。
まあそれはちょっと言い過ぎかも知れないけど、同じプロ野球なのに、違うルールでプレーしていては、その選手の評価が見えにくくなる部分も少なからずあると思うのだ。
で、そんなリニューアルを受けてかどうか、うちもちょっと文字を大きくしてみたんだけど、どう?とある方から、「字がちっちゃい!」と苦情を受けたので(笑)。
あちゃー、球児から死球を受けたF高橋信二捕手は、精密検査の結果、左小指中手骨の骨折で全治1ヶ月だったんだって。森本やマイケルなど故障者続出のところに…。野球につきものとはいえね…。球児もしっかり立て直さないといけないね。
安藤が疲労性腰痛で抹消。岡田監督によれば「1回(登板予定を)飛ばすだけやからな。それほど重くはないよ」とのこと。そういう時期ではあるので、しっかりケアすればOK。
火・水は仙台でイーグルス戦。しかし予報では火曜は雨模様、木曜の予備日まで使うことになるのかな。2+4連戦が、移動ゲーム含みの6連戦になるが、まあしゃあないね。先発も上園や阿部やひょっとしたら二軍から上げる投手で回すことになるだろうが、それもまた楽しい。いずれにせよ天気が心配な6試合になるね。
「今さら2リーグ制を語る」で触れた「DH制」についてスピンアウト。
主旨は、DH制は「ルールの骨格部」なので、リーグにかかわらず「採用」とした方が良いのではないか。もしどうしても「保存」したいというのであれば、リーグにかかわらず一定試合数を「投手打席あり」で実施するなどして保存していけば良いのではないか(私はそこまでする必要はないと思うけど)、というもの。
【DH制はルールの骨格部分である】
野球という競技の国際化がなかなか進まない理由は山ほどある。その内の小さい理由の一つにスタンダードが定まらないというのがある。例えばストライクゾーン、例えばボール、例えばドーピング規定。もちろん審判の目視のブレは仕方ないとして、プロリーグを含めて国際スタンダードを定める努力くらいはして欲しいと思う。
DH制も重要なルールの骨格。それによって「その選手がどうあるべきか」という目標が変わり、日々の練習も違ってくる。「最高峰のルールはかくあるべし」という基準の一つとして定めるべきだと思う。
【DH制が生まれた背景】
これについてはしっかりウラをとったわけじゃなく、「想像」であることをあらかじめおことわり。
これまでも野球はいろいろとルールを変えてきた。もっとも大きなルール変更は「速球OK」、つまり投手が打ちにくい球(速球)を投げて良くなったことだろう。このルール変更によって、野球における「投手の重要性(専門性)」が際だつようになる。変化球やら、コントロールやら、どのポジションよりも専門性が求められるようになる。
現代ではさらに先発、中継ぎ、クローザーと分業によるスペシャリスト化が進む。その変化の中で、その専門性故に、極端にアウトになる確率が高い投手を打席に送るのを止めようというルール、「DH制」ができる。どちらのチームにも等しく1アウトの可能性が高い「つまらない打者」を置く代わりに、投手の代わりに打ってあげる強打者を等しく置くことにしようというもの。
これにより、投手が打撃やバントの練習をしなくて良くなり、「打撃(だけ)の天才」が守備の練習をせずに良くなった。それぞれのスペシャリストとしての技能向上に専念できるようになる。これは非力な野手がホームランを打つ練習をする必要がなくなるのと同様である。よって見ている人も、従来のマルチな才能だけではなく、スペシャリストとしての才能を楽しむ多様性を享受できるようになったのである。
【「投手打席」を残す理由】
しかしそういうルール上の「進化」にも関わらず、MLBで片方のリーグでは「投手打席」を残している(NPBでもそれに倣っている)のは、なぜなのか。
これは「投手打席も、それはそれで面白いから」という理由と、それが「伝統的、本来の姿であるから」という理由によるのだと思う。
「伝統的」については懐疑的でも、「本来の姿」については理解できる部分もある。野球の本来の姿は「子どもの遊び」であるべきだと思うから。子どもにはあまり小さいうちから「専門」に走って欲しくない。いろんなことにチャレンジして欲しい。小学3年生の時から、「ボクはDHになる」なんて言わないで欲しい(笑)。いや、本当はそれも良いと思ってるんだけどね(後述)。
でも背景の変化とともに「本来の姿」も変わったこと、ましてや最高峰のゲームについては「本来の姿」を再考しても良いのではないかということについては前述したとおりである。
「それはそれで面白い」の主な部分は、「試合の駆け引き」ということになるのだろう。と言っても、主に「チャンスの場面で好投している投手を代えるかどうか」、そこで監督の采配、判断が求められるという点に限定されていると言って良いかも知れない。後は、守備側チーム、攻撃側チームとも、極端に打てない打者一人をどう活用するかという点だけである。面白さの基準はひとそれぞれ。確かに「それはそれで面白い」と言えなくもない。でも、DHなら代打の判断はもっと高度になると思うけどね。
まあ麻雀で言ったら、「有り有り(後付け有り)」か「無し無し(完全先付け)」かの違い。どちらのルールにも良さがあり、いわれがあり、愛好者がある。そして、そのルールの違いでまったく違うゲームになる。ただ言えることは、頂点の技能を見せるプロの場合は、エンターテインメント性を軽視すべきじゃないということ。監督采配に重きを置くより、トップ選手の対決に重きを置くべきだと思うのだ。
DH制の方が、両エースがっぷり四つの投げ合いで終盤まで、なんていう対決が誘発されやすい。DH制の方が、打のスペシャリストに活躍の場が与えられやすい。有り有りの方が、「メンタンピン一発ツモ三色イーペーコードラドラバンバン!」てのが出やすいってことなのだ。
したがって私は、(最高峰のプロリーグにおいては)「投手打席」をありがたがって保存しなきゃいけない程でもないように思えるのだ。
【多様性】
2つの野球を併存させること、「それが野球の多様性だ」という意見もあるのかも知れない。野球の多様性は大好きだ。フロント、首脳陣、選手が、いろんな戦略、戦術、作戦、技術を取り揃える。楽しいことだ。
ルールの多様性も民間プレーヤーのレベルなら、あっても楽しい。だけど最高峰なら決めてしまった方が良い。
スペシャリストを広く受け入れるという点で、DH制は選手の多様性を可能にする制度だ。だから、小さい頃からスペシャリストになろうという多様性を排除することもない。
何をどうやっても速く走れないし、強く投げられないが、とんでもなくかっ飛ばす選手がいたとして、DH制があればどえらい選手に育っていく可能性が高まる。なんらかの理由で、スペシャリストを目指したいという若い才能の芽を生かすことになるのかも知れない。
【保存するのなら】
それでもどうしても「投手打席」を保存したいというのなら仕方ない(笑)。全試合のうちどれくらいかみんなで話し合って、旧ルールでやったらよろし。ああ昔はこういうルールだったなあと、オレは投手だけど打席も好きだったぜってね。
まあそれはちょっと言い過ぎかも知れないけど、同じプロ野球なのに、違うルールでプレーしていては、その選手の評価が見えにくくなる部分も少なからずあると思うのだ。