2008.10.29 Wednesday
欲望自体は生物的にありふれたものなのに、社会が高度に組織化されると欲望自体も複雑になってくる。個体だけのものでなくなったり、生存や安全のためだけでなく、もっと些末なところにまで欲望の影響が及ぶようになったりする。すると、高度な社会では、ごくありふれたものにすぎない欲望に、何か高度な意味を与えたくなる。「欲望=エネルギー源」とか「欲望=罪」とか、そういう風に。
今、私が「欲望」という言葉からまっさきにイメージするものは「カネ」である。でもよく考えたら、ずいぶんと突飛な話ではないか。もし私がジャングルで10人程度の群れで原始的生活をしていたら、「欲望=カネ」なんて思いもしないだろう。高度な社会に所属しているから、カネがあればあれやこれやが実現できて、その結果自分の生存や安全、DNAの保存に繋がる。社会とともに欲望は変化して来て、今現在は「欲=カネ」の時代だのだろう。
そういうカネへの欲望や、物欲に比べたら、「名誉欲」というのはもっと原始的な本能に近い部分にある欲だと思う。他者から尊敬され、高い価値を有すると認められることは、直接的に個体の生存や安全、DNAの保存に繋がる。もちろん社会が高度化する中で、その欲望も複雑化し、「誇り」「誉れ」「プライド」という美徳に変化してもいる。
と、まどろっこしすぎたが(笑)、原辰徳ジャイアンツ監督がWBC監督を快諾したことへの賛辞なのだ。「リターンの割りにはリスクが大きすぎ。カネにならないどころか、メシのタネをも脅かす」これが現代社会に生きる多くの「監督候補」のホンネだろう。だから原監督は、よくぞ名誉を取ってくれたと思う。本来は名誉も「欲」なのだが、このカネ至上主義の時代に、カネと名誉を秤にかけて、名誉を選ぶなんてつくづく「無欲」に思える。
だいたいプロスポーツなんてものは、原始的欲望に近いところでプレーしているから、原始的欲望に憧れる観衆が熱狂するものなのだ。素直にカッコイイ!と思うのは、そういう原始的な姿。そんな姿に畏れを抱き、その崇高さに平伏すのだ。
本当のところがどうかなんて、一般民間人にはわからないが、原監督には誉れ高き紳士という風があり、名誉のために生きるというイメージがある。もちろん結果責任というのも重いが、そこらへんにファンから受け入れられなかった星野監督との違いがあるように思う。
ただね、業界全体の「高度な欲望」自体にどんな変化があったのか、なかったのか。そこらへんがまだまだちゃんと見せられていない。ゴタゴタを見る限り、なーんも変わらぬ「カネ至上主義」のままであると多くのファンは見ていると思う。加藤新コミッショナーにまず求められるのは理念をぶち上げることではなかろうか。
今、私が「欲望」という言葉からまっさきにイメージするものは「カネ」である。でもよく考えたら、ずいぶんと突飛な話ではないか。もし私がジャングルで10人程度の群れで原始的生活をしていたら、「欲望=カネ」なんて思いもしないだろう。高度な社会に所属しているから、カネがあればあれやこれやが実現できて、その結果自分の生存や安全、DNAの保存に繋がる。社会とともに欲望は変化して来て、今現在は「欲=カネ」の時代だのだろう。
そういうカネへの欲望や、物欲に比べたら、「名誉欲」というのはもっと原始的な本能に近い部分にある欲だと思う。他者から尊敬され、高い価値を有すると認められることは、直接的に個体の生存や安全、DNAの保存に繋がる。もちろん社会が高度化する中で、その欲望も複雑化し、「誇り」「誉れ」「プライド」という美徳に変化してもいる。
と、まどろっこしすぎたが(笑)、原辰徳ジャイアンツ監督がWBC監督を快諾したことへの賛辞なのだ。「リターンの割りにはリスクが大きすぎ。カネにならないどころか、メシのタネをも脅かす」これが現代社会に生きる多くの「監督候補」のホンネだろう。だから原監督は、よくぞ名誉を取ってくれたと思う。本来は名誉も「欲」なのだが、このカネ至上主義の時代に、カネと名誉を秤にかけて、名誉を選ぶなんてつくづく「無欲」に思える。
だいたいプロスポーツなんてものは、原始的欲望に近いところでプレーしているから、原始的欲望に憧れる観衆が熱狂するものなのだ。素直にカッコイイ!と思うのは、そういう原始的な姿。そんな姿に畏れを抱き、その崇高さに平伏すのだ。
本当のところがどうかなんて、一般民間人にはわからないが、原監督には誉れ高き紳士という風があり、名誉のために生きるというイメージがある。もちろん結果責任というのも重いが、そこらへんにファンから受け入れられなかった星野監督との違いがあるように思う。
ただね、業界全体の「高度な欲望」自体にどんな変化があったのか、なかったのか。そこらへんがまだまだちゃんと見せられていない。ゴタゴタを見る限り、なーんも変わらぬ「カネ至上主義」のままであると多くのファンは見ていると思う。加藤新コミッショナーにまず求められるのは理念をぶち上げることではなかろうか。