2005.03.05 Saturday
二軍のオープン戦、教育リーグも始まるらしい。一軍帯同組から沖原、秀太、庄田、岡崎が実戦の場に送り出されるという。また、ともに腰回りに不安があった桟原、赤松も由宇での広島戦遠征に加わるという。いやいや、今年の一軍枠争いはハイレベルで熾烈だ。予想表を更新。
デプス・チャート3/5版
巨人・堀内監督が「応援を何とかしなきゃいけない。鳴り物をなくして、本当のボールの音とか、本質的な醍醐味を感じてほしいね」と発言したという。この際、他にもやらなきゃいけないことはたくさんあるだろうという議論は放っておいて、この発言には拍手をおくりたい。この人、若い頃から生意気と言われ、誤解を招きやすいキャラクターだが、自分の思っていることを率直に発言する態度は素晴らしいと常々思っている。将来の「頑固ジジイ」候補だ(笑)。
鳴り物応援の歴史について詳しいわけではないが、もともと、高校野球にならって、盛り上がりに欠けるスタンドをなんとか景気づけようとして発生したものではなかったか。都市対抗野球の応援席で、マイクを持った応援団が「動員された」会社関係者をあおるのと意味は同じだったと思う。起源はどうあれ、その後「鳴り物」「応援歌」は日本プロ野球の応援スタイルとして定着していく。プロ野球約70年の歴史の内、20年ほどをかけて出来上がった形だ。
はじめのうち、プロ野球ファンは口々に、この「邪道な」応援に反発していた。だが、次第にその声は大音量にかき消され、スタンドから追い出されていった。楽しそうだからいいんじゃないのと。でも私はどうしても、何十年たっても受け入れられない。
大げさだが、野球を観に行くということは、私にとってはとても神聖なことだ。野球選手に憧れていた子供の頃、父親に連れられて初めて球場に行った時のことは忘れない。試合前の打撃練習で、ポンポンとスタンドに放り込むスター選手。攻守交代の時に、軽やかにボールをまわす野手たち、ものすごく速い球を投げて、それを打ち返すバッター。そして速球がミットに収まるときのパンという音、バットが球をとらえた時の高い音、観客による大歓声…。ああ、野球選手ってなんて凄いんだろう…。今でも野球を観に行けば、あの時の気持ちが蘇ってくる。野球選手は凄いんだ。
だから私はいつでも野球を観ていたいし、選手を観ていたい。本当は野球を聞きたい。選手たちが造り出すすべての音を聞いていたい。少なくとも応援団の指示や、サインなど見たくもないし、笛の音もラッパの音も太鼓の音も聞きたくない。
現在の甲子園の応援はある意味で素晴らしい。そのスタイルもそれなりに伝統と呼べるだけの時間も経てきた。現在足繁く球場に通うファンの大半が、それを楽しみに来ているという事実を軽んじるつもりはない。それらはすべて認める。黄色ジャージのみなさんも、球場に来た多くの人が楽しんで帰れるようにと最善を尽くしているということなのだろう。その努力そのものに対しては頭が下がる。
だがその上で、あえて言わせてもらいたい。大観衆による統制の取れた一糸乱れぬ応援など、行き着くところは北朝鮮のマスゲームではないか。鳴り物や応援歌でより多くのファンを楽しませようなどという考え方そのものが、野球や野球選手を無視した、思い上がった態度ではないか。鳴り物や応援歌を使わなくても、ファンがみんなで楽しめるような応援方法は他にもあるだろう。応援団の人も、現状是認だけでなく、向上心をもって欲しい。もっと野球への愛情があるようなものを模索して欲しい。
選手たちの高度なプレーをよく見て、ダメなプレーに罵声を浴びせ、素晴らしいプレーに心からの拍手と歓声を捧げる。自分には到底できないことを見せてくれる選手たちに、尊敬と感謝の気持ちを表現する。それ以上の応援などあり得ない。良いプレーを喜び、悪いプレーを嘆く。ただこれだけの演者と観客の交流が、エンターテインメントを育てていく。のべつまくなしに鳴り続ける大音量からだけでは、選手へのフィードバックにならないだろう。
「一番エライのはファン」という風潮は正直コワい。
デプス・チャート3/5版
巨人・堀内監督が「応援を何とかしなきゃいけない。鳴り物をなくして、本当のボールの音とか、本質的な醍醐味を感じてほしいね」と発言したという。この際、他にもやらなきゃいけないことはたくさんあるだろうという議論は放っておいて、この発言には拍手をおくりたい。この人、若い頃から生意気と言われ、誤解を招きやすいキャラクターだが、自分の思っていることを率直に発言する態度は素晴らしいと常々思っている。将来の「頑固ジジイ」候補だ(笑)。
鳴り物応援の歴史について詳しいわけではないが、もともと、高校野球にならって、盛り上がりに欠けるスタンドをなんとか景気づけようとして発生したものではなかったか。都市対抗野球の応援席で、マイクを持った応援団が「動員された」会社関係者をあおるのと意味は同じだったと思う。起源はどうあれ、その後「鳴り物」「応援歌」は日本プロ野球の応援スタイルとして定着していく。プロ野球約70年の歴史の内、20年ほどをかけて出来上がった形だ。
はじめのうち、プロ野球ファンは口々に、この「邪道な」応援に反発していた。だが、次第にその声は大音量にかき消され、スタンドから追い出されていった。楽しそうだからいいんじゃないのと。でも私はどうしても、何十年たっても受け入れられない。
大げさだが、野球を観に行くということは、私にとってはとても神聖なことだ。野球選手に憧れていた子供の頃、父親に連れられて初めて球場に行った時のことは忘れない。試合前の打撃練習で、ポンポンとスタンドに放り込むスター選手。攻守交代の時に、軽やかにボールをまわす野手たち、ものすごく速い球を投げて、それを打ち返すバッター。そして速球がミットに収まるときのパンという音、バットが球をとらえた時の高い音、観客による大歓声…。ああ、野球選手ってなんて凄いんだろう…。今でも野球を観に行けば、あの時の気持ちが蘇ってくる。野球選手は凄いんだ。
だから私はいつでも野球を観ていたいし、選手を観ていたい。本当は野球を聞きたい。選手たちが造り出すすべての音を聞いていたい。少なくとも応援団の指示や、サインなど見たくもないし、笛の音もラッパの音も太鼓の音も聞きたくない。
現在の甲子園の応援はある意味で素晴らしい。そのスタイルもそれなりに伝統と呼べるだけの時間も経てきた。現在足繁く球場に通うファンの大半が、それを楽しみに来ているという事実を軽んじるつもりはない。それらはすべて認める。黄色ジャージのみなさんも、球場に来た多くの人が楽しんで帰れるようにと最善を尽くしているということなのだろう。その努力そのものに対しては頭が下がる。
だがその上で、あえて言わせてもらいたい。大観衆による統制の取れた一糸乱れぬ応援など、行き着くところは北朝鮮のマスゲームではないか。鳴り物や応援歌でより多くのファンを楽しませようなどという考え方そのものが、野球や野球選手を無視した、思い上がった態度ではないか。鳴り物や応援歌を使わなくても、ファンがみんなで楽しめるような応援方法は他にもあるだろう。応援団の人も、現状是認だけでなく、向上心をもって欲しい。もっと野球への愛情があるようなものを模索して欲しい。
選手たちの高度なプレーをよく見て、ダメなプレーに罵声を浴びせ、素晴らしいプレーに心からの拍手と歓声を捧げる。自分には到底できないことを見せてくれる選手たちに、尊敬と感謝の気持ちを表現する。それ以上の応援などあり得ない。良いプレーを喜び、悪いプレーを嘆く。ただこれだけの演者と観客の交流が、エンターテインメントを育てていく。のべつまくなしに鳴り続ける大音量からだけでは、選手へのフィードバックにならないだろう。
「一番エライのはファン」という風潮は正直コワい。