2008.02.04 Monday
報知のリレーコラムに掛布氏の思い出話。高卒2年目野原の姿に、「もっと、がむしゃらに振り回すぐらいの打撃でアピールし、大きく育って欲しい」とエールを送るとともに、ターニングポイントとなった自身の2年目の安芸キャンプにタイムスリップしている。
ドラフト下位指名ながら高卒1年目から使われた掛布は、その時点でもやっぱりものすごいものを持っていたのだろうし、爆発的な成長力があったのだろう。ここで話題の1975年のキャンプを経て、同期入団でレギュラーを約束されていた大卒の佐野を押しのけて、不動の三塁手として定着する。その破竹の若虎っぷりは、その後のタイガースで類例を見ることが出来ないほど、いやプロ野球全体を見渡しても、高卒ドラフト下位指名としては見あたらない特別なことだと思う。
当時私は小学三年生。プロ野球というものにようやく関心が向き、「なぜなにプロ野球入門」「なぜなに巨人軍入門」などなど、野球関連子ども用書籍を読みあさったりした。ほどなく自分が応援すべきチームは、周囲の誰もが応援しているジャイアンツではなく、タイガースであると自主的に判断した(笑)。当時の中心選手、江夏、田淵、藤田、中村勝、古沢、上田×2…と、スポンジのような少年の脳が知識を吸収していく。その末端に、高卒ルーキー期待の星「若虎掛布」もいた。
出来たばかりの地域の少年野球チームに入団し、初めて作ったユニフォームの背番号は「22」。もちろん田淵の22だ。当時は選手は29まで、主将が10、監督は30と決められていたような気がする。
思えばあの頃からテレビで、ラジオで、新聞で、タイガースの動向を見つめながら、見守りながら、心配しながら生きているわけだ。そして今、自分の息子が同じ小学三年生の2月を迎えているというわけだ。しみじみしちゃうねぇ、お前も野球やれ!(笑)
掛布氏のタイムスリップに、思わず私もおつきあいしてしまったのだった。
当時私は小学三年生。プロ野球というものにようやく関心が向き、「なぜなにプロ野球入門」「なぜなに巨人軍入門」などなど、野球関連子ども用書籍を読みあさったりした。ほどなく自分が応援すべきチームは、周囲の誰もが応援しているジャイアンツではなく、タイガースであると自主的に判断した(笑)。当時の中心選手、江夏、田淵、藤田、中村勝、古沢、上田×2…と、スポンジのような少年の脳が知識を吸収していく。その末端に、高卒ルーキー期待の星「若虎掛布」もいた。
出来たばかりの地域の少年野球チームに入団し、初めて作ったユニフォームの背番号は「22」。もちろん田淵の22だ。当時は選手は29まで、主将が10、監督は30と決められていたような気がする。
思えばあの頃からテレビで、ラジオで、新聞で、タイガースの動向を見つめながら、見守りながら、心配しながら生きているわけだ。そして今、自分の息子が同じ小学三年生の2月を迎えているというわけだ。しみじみしちゃうねぇ、お前も野球やれ!(笑)
掛布氏のタイムスリップに、思わず私もおつきあいしてしまったのだった。