2008.08.25 Monday
払い戻しすればOKっていう話じゃないだろうに。今日も予報が悪いので同じ過ちだけはしないで欲しい。
Gが負けてマジック30がみたび点灯。もう消すことなく、一気に減らしたいね。
この中止は、オリンピックの落胆と向き合う好機を運んでくれた。あの準決勝敗退以降、関東地方はそれまでの異常高温が嘘のように冷え込んでいる。私の頭もだいぶ冷えてきた(笑)。
この落胆はなんだったのだろう。単純に「負けた」という事実そのものに対する落胆より、もっともっと大きいものがあったんだよな。
まずはその負け方。リードを奪っても、回が進むにつれて守りの気持ちからどんどん萎縮が進み、体が動かなくなって、あっさりとまくられるという試合の繰り返し。その原因となるベンチのフリーズと、選手起用。
相手の素晴らしさより前に、ジャパンの不甲斐なさを感じる展開では、「負け試合にあるべき感動」すら生み出せなかった。
その悲しい負けっぷりが、五輪という国民的注目の下で晒されるという事実にまた落胆した。プロ野球は一時代前とは違うものになっている。ペナントレースの優勝争いや、プレーオフ、日本シリーズでさえ国民的関心事にはならない。それはある意味で正常化とも言える。
しかしそこにそこはかとない淋しさを感じている野球ファンは多いと思う。自分の好きなことは、ヒトが何と言おうが愛好していれば良いことだが、できればその面白さを他人にも理解して欲しい、そう思うのが人情というもの。みんなが見ている中で、最高に素晴らしいプレーをして欲しい、最高に面白い勝負を見せて欲しい。
その願いが叶わなかった落胆の大きさもあるのではないか。少なくとも私にはそれがあった。
エネルギー保存則。この落胆のパワーは、今「怒り」と「改革への欲求」に変化して日本野球界にある。少なくともそのパワーは野球好きの中におびただしいエネルギーとして蓄積されている。このエネルギーを有効活用できるのか、それても閉じられた「野球の世界」の外に放出されてしまうのか。野球という競技種目を司る人々にかかっている。私は、彼ら「野球の偉い人」の中にも、当然この同じ落胆があり、怒りと改革への欲求を持っているのだと信じる。
銅メダルを取った陸上400mリレーの選手たちが、口々に先輩たちから受け継いだバトンを形にすることができたと喜んでいた。何かを手にしたい。その強い思いを世代が変わっても受け継いでいく。経験とノウハウと精神が受け渡され、伝統という力になる。そこに「尊い思い」がなければ、ただ長い時間やっていても伝統にはならない。
北京五輪における星野ジャパンは言い訳できぬほど弱かったが、星野監督は審判のジャッジについて言い訳をしていた。しかしそれについて、過去の代表監督松永怜一は自分たちの態度が招いたことであり、アマでは常識だと一喝する。そこに「伝統」の姿は一切ない。
そして「アマ」「プロ」というまったく意味のない境界線の姿が浮き彫りになる。
他国の戦略、戦術には優れたものが多数ある。しかし日本にはそれらを行う以前の問題がある。
一つ、日本国内において、野球を一人でも多くのアスリートにプレーしてもらい、一人でも多くの観客に喜んでもらえるよう、その普及促進を唯一無二の目的とする「日本野球協会」を組織し、ありとあらゆるレベルの競技団体がその目的のために一致協力する体制を整えること。以上。
このある意味、一番あたりまえで、一番難しいことにチャレンジしない限り、本当の意味での「日本野球の伝統」は培われないだろう。
WBCはすぐそこ。星野監督には当然責任がある。だが誰に任命責任があるのか、さっぱりわからない。野球日本代表がいったいどこの組織に所属するものなのか、誰が正しく言えるのか。それ以前に、何のために国際大会で世界一を目指すのか。
いつまでたっても地質検査もなし、基礎工事もなし。柱を立てては倒して、上物だけ立て替えるような「伝統なき再建(のような何か)」がまた始まるというのなら、ファンに蓄積されたエネルギーが、野球の外に出て行く。
たぶんまだ続く。
Special thanks for DAI !
Gが負けてマジック30がみたび点灯。もう消すことなく、一気に減らしたいね。
この中止は、オリンピックの落胆と向き合う好機を運んでくれた。あの準決勝敗退以降、関東地方はそれまでの異常高温が嘘のように冷え込んでいる。私の頭もだいぶ冷えてきた(笑)。
この落胆はなんだったのだろう。単純に「負けた」という事実そのものに対する落胆より、もっともっと大きいものがあったんだよな。
まずはその負け方。リードを奪っても、回が進むにつれて守りの気持ちからどんどん萎縮が進み、体が動かなくなって、あっさりとまくられるという試合の繰り返し。その原因となるベンチのフリーズと、選手起用。
相手の素晴らしさより前に、ジャパンの不甲斐なさを感じる展開では、「負け試合にあるべき感動」すら生み出せなかった。
その悲しい負けっぷりが、五輪という国民的注目の下で晒されるという事実にまた落胆した。プロ野球は一時代前とは違うものになっている。ペナントレースの優勝争いや、プレーオフ、日本シリーズでさえ国民的関心事にはならない。それはある意味で正常化とも言える。
しかしそこにそこはかとない淋しさを感じている野球ファンは多いと思う。自分の好きなことは、ヒトが何と言おうが愛好していれば良いことだが、できればその面白さを他人にも理解して欲しい、そう思うのが人情というもの。みんなが見ている中で、最高に素晴らしいプレーをして欲しい、最高に面白い勝負を見せて欲しい。
その願いが叶わなかった落胆の大きさもあるのではないか。少なくとも私にはそれがあった。
エネルギー保存則。この落胆のパワーは、今「怒り」と「改革への欲求」に変化して日本野球界にある。少なくともそのパワーは野球好きの中におびただしいエネルギーとして蓄積されている。このエネルギーを有効活用できるのか、それても閉じられた「野球の世界」の外に放出されてしまうのか。野球という競技種目を司る人々にかかっている。私は、彼ら「野球の偉い人」の中にも、当然この同じ落胆があり、怒りと改革への欲求を持っているのだと信じる。
銅メダルを取った陸上400mリレーの選手たちが、口々に先輩たちから受け継いだバトンを形にすることができたと喜んでいた。何かを手にしたい。その強い思いを世代が変わっても受け継いでいく。経験とノウハウと精神が受け渡され、伝統という力になる。そこに「尊い思い」がなければ、ただ長い時間やっていても伝統にはならない。
北京五輪における星野ジャパンは言い訳できぬほど弱かったが、星野監督は審判のジャッジについて言い訳をしていた。しかしそれについて、過去の代表監督松永怜一は自分たちの態度が招いたことであり、アマでは常識だと一喝する。そこに「伝統」の姿は一切ない。
そして「アマ」「プロ」というまったく意味のない境界線の姿が浮き彫りになる。
他国の戦略、戦術には優れたものが多数ある。しかし日本にはそれらを行う以前の問題がある。
一つ、日本国内において、野球を一人でも多くのアスリートにプレーしてもらい、一人でも多くの観客に喜んでもらえるよう、その普及促進を唯一無二の目的とする「日本野球協会」を組織し、ありとあらゆるレベルの競技団体がその目的のために一致協力する体制を整えること。以上。
このある意味、一番あたりまえで、一番難しいことにチャレンジしない限り、本当の意味での「日本野球の伝統」は培われないだろう。
WBCはすぐそこ。星野監督には当然責任がある。だが誰に任命責任があるのか、さっぱりわからない。野球日本代表がいったいどこの組織に所属するものなのか、誰が正しく言えるのか。それ以前に、何のために国際大会で世界一を目指すのか。
いつまでたっても地質検査もなし、基礎工事もなし。柱を立てては倒して、上物だけ立て替えるような「伝統なき再建(のような何か)」がまた始まるというのなら、ファンに蓄積されたエネルギーが、野球の外に出て行く。
たぶんまだ続く。
Special thanks for DAI !